五輪サッカー日本代表を振り返る >> 1908年ロンドン大会〜1980年モスクワ大会

アマチュア選手のみ出場が可能だった時代
第1回のオリンピックは1896年のアテネ大会ですが、サッカーが公式種目として採用されたのは1908年のロンドン大会から(FIFAの公式アナウンス)です。
1930年からワールドカップが開催されたこともあり、1980年のモスクワ大会まではアマチュア選手のみが出場可能、いわば「サッカーにおけるアマチュアの最高峰を決める大会」でした。
サッカー日本代表が初めてオリンピックに出場したのは、1936年のベルリン大会。日本サッカーがプロ化されたのは1993年であり、それ以前のアマチュア時代は「ワールドカップなど、夢のまた夢」ということで、オリンピックに出場することこそが日本サッカー界の目標であったように思います。では早速、1980年モスクワ大会までの日本五輪代表の成績を見てみます。

サッカー日本五輪代表の成績
1908 - 1928 - 不参加
1936 - 2回戦敗退(ベルリン)
1948 - 不参加(ロンドン)
1952 - 不参加(ヘルシンキ)
1956 - 1回戦敗退(メルボルン)
1960 - 予選敗退(ローマ)
1964 - ベスト8(東京)
1968 - 3位 銅メダル(メキシコシティー)
1972 - 予選敗退(ミュンヘン)
1976 - 予選敗退(モントリオール)
1980 - 予選敗退(モスクワ)

開催国となった1964年はベスト8
日本にとってはまだサッカー不毛の時代。開催国となる1964年に向けて、1960年頃から強化が行われたようです。「日本サッカーの父」と呼ばれるデッドマル・クラマーさんがコーチとして招聘され、川渕三郎さんや杉山隆一さんが中心メンバーとなりベスト8という成績を残しました。
(JOC トップアスリートインタビュー)
初戦でアルゼンチンを破ったことは、1996年大会でブラジルに勝った「アトランタの奇跡」以上の衝撃だったようですね。その後ガーナ、チェコスロバキアに負けたことや、非公式の敗者戦があったことはあまり知られていません。ユーゴスラビアに1-6というのは・・これもまた衝撃です。当時は東欧諸国が非常に強く、1964年東京大会では金銀銅を独占しました。
(賀川サッカーライブラリ回顧録)
日本の成績、大会の主な結果

グループリーグ(D組)

日本 3–2 アルゼンチン
日本 2–3 ガーナ
1勝1敗 グループ2位で決勝トーナメント進出
※イタリアは棄権

準々決勝

チェコスロバキア 4–0 日本
非公式敗者戦1回戦
日本 1–6 ユーゴスラビア

準決勝

ハンガリー 6–0 アラブ連合共和国
チェコスロバキア 2–1 ドイツ  ※1

3位決定戦

ドイツ 3–1 アラブ連合共和国

決勝

ハンガリー 2–1 チェコスロバキア
※1 参加国としては東西統一ドイツ、サッカー競技の選手は東ドイツ単独

今も語り継がれる、メキシコ大会の銅メダル
銅メダルを獲得した試合、3位決定戦のメキシコ戦のこと(特に釜本さんの2ゴール)はご存知の方も多いと思います。ただそれ以外のことはあまり知られておらず、改めて調べて私もいろいろな発見がありました。
日本が入ったグループBの国がすごい。。スペイン、ブラジル、ナイジェリア・・現代ならまさに「死の組」ですね。しかしこの頃オリンピックのサッカー競技はまだアマチュア選手しか参加資格がありませんでしたから、実際に死の組だったかどうかは分かりません。1968年と言えば"神様ペレ"が27歳、42歳のアルフレッド・ディ・ステファノはスペインリーグのエイバルで監督をしていたようですので、もしも彼らが参加していたら・・もしかしたら銅メダルはなかったかもしれませんね。
(YouTube "Kings of 1970 - Pele)
日本の成績、大会の主な結果

グループリーグ(B組)

順位 チーム 勝 分 負 [点]
1位 スペイン 2 1 0 [5]
2位 日本 1 2 0 [4]
3位 ブラジル 0 2 1 [2]
4位 ナイジェリア 0 1 2 [1]

スペイン 1 – 0 ブラジル
日本 3 – 1 ナイジェリア

スペイン 3 – 0 ナイジェリア 
ブラジル 1 – 1 日本

ブラジル 3 – 3 ナイジェリア
スペイン 0 – 0 日本

準々決勝

日本 3 – 1 フランス 

準決勝 

ハンガリー 5 – 0 日本 
メキシコ 2 – 3 ブルガリア

3位決定戦

日本 2 – 0 メキシコ
観客数: 105,000

決勝

ハンガリー 4 – 1 ブルガリア 
観客数: 75,000

ハンガリーが連覇、3位決定戦の観客は10万人超え!
1950年代〜60年代は「マジック・マジャール」と呼ばれるハンガリーの黄金時代でした。1954年のW杯スイス大会では準優勝、メンバーが同等だったか分かりませんが、その前の1952年ヘルシンキ五輪では金メダルに輝いています。その後1964年の東京五輪に続き、このメキシコ五輪で連覇を果たしました。
地元開催のメキシコは準決勝でブルガリアに2-3と敗戦。ハンガリーに0-5と大敗した日本と、銅メダルをかけた3位決定戦に臨みました。この時の観客数は105,000人!決勝の観客数が75,000人ですから、国中が日本に勝つことを期待し、多くのメキシコ国民がスタジアムに集まったことが想像できます。
3位決定戦の舞台は「アステカ・スタジアム」。そう、あの「マラドーナ5人抜きゴール」の伝説が生まれた舞台です。マラドーナが世界を熱狂させるゴールを決めた場所、マラドーナがW杯トロフィーを掲げた場所・・同じスタジアム、10万人を超える観客の前で日本が見事メキシコを下し、銅メダルに輝いたのですね。そこで2ゴールを決めた釜本さんは凄い!一方で負けたメキシコは深い悲しみに暮れたことでしょう。もしかしたらメキシコ国内では「メキシコシティーの悲劇」と言って語り継がれているのかもしれません。
(YouTube 伝説の名実況 マラドーナ5人抜き)

70年代〜80年代 日本サッカー冬の時代
メキシコ五輪の銅メダル以降、1972年ミュンヘン大会・1976年モントリオール大会・1980年モスクワ大会と、日本は予選敗退が続きました。1996年アトランタ五輪まで続く、長く不毛な時代です。オリンピックにおいてプロ選手の参加が可能になった1984年ロサンゼルス五輪以降の振り返りはまた次回に。

-End-

五輪サッカー日本代表を振り返る >> 1984年ロサンゼルス大会〜1996年アトランタ大会
(coming soon)
五輪サッカー日本代表を振り返る >> 黄金世代が躍動!2000年シドニー大会
(coming soon)
五輪サッカー日本代表を振り返る >> 2004年アテネ大会〜2016年リオデジャネイロ大会
(coming soon)


#オリンピック #サッカー日本代表 #釜本ゴール #メキシコ五輪 #銅メダル

0コメント

  • 1000 / 1000

クリプトスクリプト

Onlineクレーンゲーム業界で働き、独学でドラムを練習する。欧州から高校サッカーまで、戦術もプレイヤーも幅広く追いかけます。